荻窪の街について
杉並区荻窪の不動産物件紹介|荻窪の街について
「荻窪」は、駅から少し入ると静かな住宅街にもかかわらず中央線で新宿まで13分で行け、始発の丸ノ内線で大手町や有楽町、又東西線で高田馬場へ乗り換えなしで行ける交通の便利な街である。
「荻窪駅」の周辺には、西友やLUMINEがあり、魚屋や八百屋が競い合って安売りをしていて物価も安い街である。
現在の中央線は、明治22年4月に甲武鉄道(株)としてスタートし、新宿から立川間の駅は、中野、武蔵境、国分寺の各駅だった。
荻窪駅は明治24年12月に開設され、数百メートル離れ たところににすむお年よりに聞くと、自宅から駅が見えてい たそうである。
明治39年当時国営であった八王子から甲府間と連結し、同年10月1日に国営に移管され中央線となった。
大正11年頃の荻窪駅の乗降客は一日平均わずか1381人だった。
現在の乗降客の一日平均は約17万人でさっと123倍になる。
一度「荻窪」に住んだ人は、この街から出ていきたくないと言う住みやすい街である。
荻窪の由来
地名の由来は、、光明院という古寺・杉並区上荻2-1-3 に残っています。
和銅元年(708年)一人の修行僧が観音様をおぶって この地を通ると、不思議にも尊像、急に重くなり、歩くことが出来なくなって しまいました。
修行僧は尊像はこの地に縁があるのではと思い、付近一帯に自生していたオギ (荻・イネ科の多年草)という草を刈り取って草堂を作り、観音様を安置し草堂 を荻堂(荻寺)と名付けました。
それが発祥となり荻窪と言われるように なったそうです。
中世の荻窪は豊島郡に属し、文明9年(1477年)に豊島氏が太田道潅に滅ぼされるまでは豊島氏の領地で、その後は扇ヶ谷上杉氏、北条氏、徳川氏の領地となりました。
江戸時代初期には、荻窪村を京都に近い西側を上荻窪村、遠い東側を下荻窪村の2つの村に分けられ、下荻窪村は伊賀忍者の隊長服部半蔵の知行地に、上荻窪村は伊賀同心八名の知行地になりました。
その後下荻窪村は幕府直轄の天領となり、後の寛永12年(1635年)に麹町山王日枝神社領になりました。
上荻窪村も天領になりました。
天沼
かつて、天沼のあたりは天沼村と呼ばれていました。
古代8世紀に書かれた「続日本紀」の中に乗潴(あまぬま)に駅をもうけたとあります。
これは阿佐谷、荻窪間の天沼であるという説があり、古くから街道が開けていたと考えられます。
杉並区
杉並区は昭和7年、東京市域に20区が誕生した時に、杉並・和田掘・井荻・高井戸の4町で成立、同18年に東京都杉並区となり、戦後、自治法の公布によって特別区となった。
地名の由来は、江戸初期、成宗と田端2村の領主岡部氏が杉並木を植えて境界を明らかにしたことによる。
ここから杉並村から杉並区へ。
区の誕生の折も、人口が多く量観の杉並町に区役所が置かれ、必然的に区名も杉並となった。
以後、文化人が多く住む住宅区域としてめざましい発展をしている。